富里の由来や、歩んできた歴史をご紹介します

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歴史探訪

千葉県富里市歴史探訪
富里市の概要
富里市は、千葉県の北部に位置し、北に成田市、南に八街市などと隣接しています。熊本県に並ぶスイカの名産地として有名で、生産量は全国第2位となっています。同市の約68%が山林や農地で占められており、市域の中央を根木名川や高崎川が流れるなど、豊かな自然に恵まれています。

富里のあゆみ
富里の地に人々が住み始めたのは、約3万年前といわれています。
市内では、東内野遺跡をはじめとする多くの古代遺跡が見つかっており、これらの遺跡からは、旧石器時代後半に伴うナイフ形石器、尖頭器が多く出土しています。中でも、東内野遺跡から発見された樋状剥離(ひじょうはくり)を持った尖頭器(槍)は、極めて特徴的だったため、東内野型尖頭器と命名され、現在では全国的に知られる石器となっています。
立沢と高野の境にある吉川遺跡には、須恵器を焼いた登り窯が存在し、ここで焼かれた土器は、この周辺はもとより、遠方まで運ばれて使用されていました。この他にも、久能高野遺跡からは、「罪司進上代」と書かれた墨書土器が出土し、この地方に優れた文字文化があったことがわかります。

中世の富里は、鎌倉幕府の成立過程で下総国内に多くの所領を獲得し、下総国守護として圧倒的な勢力を誇るに至った、千葉氏の支配下にありました。現在の富里の村々の原形は、このころから既にでき上がっており、ここで中心的な役割を担っていたとされるのが、千葉氏支族の三谷氏です。中沢昌福寺にある三谷胤政の供養塔が、三谷氏と富里の関係を示す歴史文化財となっています。

江戸時代の富里は、ほとんど佐倉藩領に属していました。内野牧・柳沢牧・高野牧の一部を開発することによって、日吉倉・久能・根木名・大和・新橋・中沢・立沢・高野の各新田が成立し、そのいずれもが幕府直轄の天領となりました。
中央部や東部に広がる原野は、内野牧・高野牧として馬が放牧され、毎年秋になると近隣の村人を使って馬を捕獲し、販売していました。そのため、地元の大きな農家は「牧士」と称した士分の待遇が与えられ、馬の管理と捕獲を任されていました。現在でも富里工業団地の南に、高野牧の捕込跡が現存し、国道296号を七栄十字路から酒々井町方面へむかった道路の左右には、内野牧の野馬土手の一部を見ることができます。

明治に入ると、葛飾県・佐倉県・印旛県と3度にわたる所轄の変遷を経て、木更津域とともに新しく設けられた千葉県域に含められることになります。東京府内の豪商は政府から依頼され、多くの窮民を集め、開拓民としてこの地に送り込みました。この時の開拓民は220戸を数え、一時はちょっとした繁華街ができるほど賑わいをみせ、ここに七栄集落や十倉集落が誕生しました。
その後、生活苦や苛酷労働に耐えきれず村を去るものが相次ぐなか、政府は両国地区に勧業寮本庁を設置し、アメリカから牧羊家を招いて、綿羊の飼育と洋式大農法を指導させました。その結果、原野は整然たる耕地・牧場となり、これらの事業は、後の宮内省管轄「下総御料牧場」として発展する基となりました。

明治22年(1889年)に、七栄村などの13ヶ村が合併して「富里村」が誕生して以降、町制・市制施行によって昭和60年(1985年)に「富里町」、平成14年(2002年)には「富里市」へ移行し、現在に至っています。


富里の名前の由来
「十三(とみ)の里」といわれることから、13の村が合併する際、「将来豊かな郷土に」という期待も込められて「富里」と命名されたことが由来となっています。


富里の歴史についてもっと詳しく知りたい人はこちら↓
藤崎牧士史料館
住所: 〒286-0203
千葉県富里市久能583-4 [地図を見る]
電話番号: 0476-92-1258
開館時間: 9:00〜15:00
休館日: 毎週月・木・金曜日、創立記念日(2月14日)、年末年始(12月26日〜1月7日まで)
入館料: 無料







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